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アレクサンダー・ヴルツ(''Alexander Wurz'' 、1974年2月15日 - )はオーストリア人の元レーシングドライバー。1996年、2009年ル・マン24時間レース優勝。FIA 世界耐久選手権に参戦するトヨタのドライバー顧問であり、F1ではウィリアムズのドライバー顧問も務める。 日本語表記では姓を「ブルツ」、名を短縮形の「アレックス」と記す場合もある〔アレックス・ブルツ - 本田技研工業(2012年11月20日閲覧)。〕。 == F1 == 1997年第7戦カナダGPで、欠場した同郷のゲルハルト・ベルガーの代わりにベネトンチームより出場。早くも参戦3戦目の第9戦イギリスGPでは、2位に入賞したチームメイトのジャン・アレジに次ぐ3位表彰台を果たした。第10戦からはベルガーが復帰したため、この年は3レースの出走のみだった。 この活躍が認められ、翌1998年よりベネトンチームのレギュラーシートを獲得し、1999年もドライブしたが、2000年にはチームメイトのジャンカルロ・フィジケラともども、走らないマシンに手を焼かされてわずか1戦のみのポイント獲得に留まり、翌シーズンのレギュラーシートを失なった。 このため2000年シーズンオフにマクラーレンのテストドライバーとして契約。以降、何度かジャガーなど他チームのシート獲得寸前までいったこともあったが、実現に至っていない。この頃撮影された写真で左右のドライバーシューズの色が異なっている物が見られるが、スポンサーのD2に配慮してのものではない(後述)。 2005年第4戦サンマリノGPには怪我で欠場したファン・パブロ・モントーヤに代わりおよそ5年ぶりにレースに出場し、B・A・Rの失格による繰上げながら3位入賞を果たした。 長らくテストドライバーを務めていたが、上記のジャガーとの交渉でも分かるように常にレギュラードライバーのチャンスをうかがっていることはよく知られている。2006年についてはマクラーレンのテストドライバーを2005年のDTMチャンピオン、ゲイリー・パフェットに譲ることとなったことから、DTMへの転身などの可能性が囁かれていたが、結局2007年以降のレギュラーシートを目指して、ウィリアムズのテストドライバーに就任することになった。 2007年には念願叶い、ウィリアムズのレギュラードライバーに昇格。ベネトンを放出されて以来7年ぶりにレギュラーシートを獲得した。予選ではスピードに勝るニコ・ロズベルグに大敗するものの、大荒れのレースで確実にポイントを獲得し、カナダGPでは2005年以来の3回目の表彰台(3位)を果たした。その後のヨーロッパGPでも、マーク・ウェバーに惜しくも届かなかったが4位入賞を果たしている。なお、中国GP後にF1からの引退を表明し、最終戦ブラジルGPの出走を中嶋一貴に譲ったが、2008年1月10日にホンダからリザーブ兼テストドライバーとして起用することが発表された。 その年の年末にはホンダのF1撤退が発表され、当初は2009年も引き続き後継チームのブラウンGPにて同職を継続するとされた(ただしシーズン中テスト禁止規則のため、実際はリザーブとアドバイザー職を務めるとしていた)。しかし開幕直前になり、チームはヴルツではなくアンソニー・デビッドソンをリザーブドライバーに起用することを発表したため、今後はアドバイザーとしての職務に専念することになると見られている。なおヴルツ自身は「少なくとも今年一杯、おそらく来年以降もチームに残留する」とコメントしている〔Wurz surprised to miss Brawn reserve role - OneStopStrategy.com(2009年3月27日)〕。 2010年F1の参戦枠3チーム増加に伴うエントリー募集に対し、オーストリアの投資会社スーパーファンドと組んだ「チームスーパーファンド」の代表としてヴルツはエントリー。しかし、選ばれたのはUSF1・カンポス・グランプリ・マノー・グランプリの3チームとなり、チームスーパーファンドは2010年のF1新規参戦の道が閉ざされた。 2012年からウィリアムズのドライバー顧問を勤める。また、ウィリアムズからのF1復帰が報じられたが、本人やチームは否定している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アレクサンダー・ヴルツ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Alexander Wurz 」があります。 スポンサード リンク
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